いい人のお話。
- まずは
お久しぶりです。
一発限りかと思った人もいると思います。
私もそう思っていました。
何かをやる時は一歩目がいちばんエネルギーを使う。という話があります。皆さんもとても実感しているのではないでしょうか?
一歩目を踏み出すエネルギーを使ったのにも関わらず2歩目を踏み出さないというのは勿体無い話です。2歩目からは惰性で続けられるのですから。
ちなみに上の文だけで170字程度です。
Twitterは140字ですが、そう思うと140字というのは、『表現』を行う場としては圧倒的に少ない。
まぁこれは当然の事ですね。
かく言う私も、そういう理由があってブログを開設した次第ですし。
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本題へ
では、本題へ。
では、今日のお話は「いい人」です。
特に誰に対しても「いい人」に「なりたい人」に向けてのお話です。
あなたは「いい人」ですか?
あなたの周りに「いい人」はいますか?
あなたは「いい人」になりたいですか?
yes,or,no.答えは様々ですが、重ねて質問します。
「いい人」って、何ですか?
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いい人って?
そもそも質問がずるいですよね。わかります。私自身こういう質問されるとイラっとします。
質問が広義的過ぎて、誰がどう答えようと、「異議あり!」と反対出来てしまいます。
賢ぶったそこそこインテリな経歴持ちな人にありがちです。(適当に言ってます)
というわけで、この質問は一旦スルーします。
仕方ないので「いい人」の要素を探ってみましょう。
他人から見てただ一つ「優しい」ことが条件でしょう。
だから簡単に人は「いい人」になろうとするが、よく分からない壁にぶつかって失敗する。
その理由を説明する前に、「いい人」当人から見た条件。それは大きく三つに分類される。
まず「甘い」、次に「親和的」、そして「没個性」だと、私は思っています。
誰かにとっての「いい人」になるためには、まず甘くなければならない。誰かが傷つけば、労いに行き、誰かが喜べば賞賛の声を口にする。誰かが苦悩していれば、甘やかさねばならない。ここで、激励の言葉は言ってはならない。本当に人の為になる言葉は押さえ込み、対象の流れやすい方向に背中を押してやらねばならない。
でなければ万人に受け入れられないからだ。
「いい人」は本当の「優しさ」を知っている。それなのに「いい人」になりたいが故に甘さを捨てられない。優しさを捨ててしまう。
これが第一の壁、
では次、「親和的」。
親和的になるには、狭量であってはいけない。無限にも等しい度量と器量が要求される。自身の本来の思想と比べて、どれだけかけ離れていようと、その中に一理を見つけなければならない。場合によってはその思想に染まらなければならない。
さらにそこから辻褄合わせもしなければならない。しかしそんなものは無理だ。どう考えても10人全員の思想に定量の同意をするなど不可能だ。
だから、
だから、「没個性」にならなければならない。
没個性であるならば、どんな考えにも、どんな行いにも、赤子のように「そんな考えもあるのか」と言える。これが「誰にとってもいい人」の最善手である。
だが、これは、普通の人には無理だ。常人のソレでは耐えられない。精神力とか、根性とかそういう話ではなく。一般的な思考の方向性を持つものならば。という意味で。
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「いい人」になる理由
ここまで話して、さて、何故そんないい人にならなくちゃならないんだ?と疑問を持った人。
その疑問はただしく、明確になる必要はなく、なるべきでもない。
しかし、いい人というのはそれを押し通してでも「いい人」を演じる。
なぜか。
答えは簡単で、いつの間にか、本当に無個性になって、本当に誰かの思想を「そういう考えもあるのか」としか思えなくなって、だから特に憤ることもなくなって、人に厳しく、正しい方向を指差すことも出来なくなった。ただそれだけだ。
「誰に対してもいい人」でありたいなどと、欲張った人の当然の報いだ。そして、それでも、こうなってしまっても本望であると思ってしまえる人間の愚かさ。「いい人」とは、人間の欲と愛を選べなかった人間の末路であるとも言える。
それでも尊いと思えるならば、挑戦してみるのも悪くない。
きっとこれは氷河の1角でしかない。それを理解した上で、それを覚悟した上でなら、本当の「いい人」になれるかもしれない。
なりたいと思う君は、結構な破綻者だと思うよ。
解離性人格障害に気をつけてね。
おーわり!